前回の頂点問題の記事で、「最後は「でもまだ悟りを開けていないんですけど」ということになってしまうかも」とジョークのつもりで書いたのですが、自分で書いたその言葉に引きずられて思い出した本をご紹介します。
『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース著/古閑博丈訳
今はどうなのかわかりませんが、数年前くらいに「非二元」とか「アドヴァイタ」とか「ノン・デュエル」とかいう言葉がよく聞かれ、悟りを開くのが流行った(といっていいのかな。私もいろいろわからない世界なので、書きにくいのですが)ことがあって、そのころ出版された本です。
なんと、悟っちゃった人たちへのインタビューをまとめた本なのです。
しかもその悟っちゃった人たちというのは、ヨガの達人でも宗教人でもなく、市井の普通の人々で、老若男女、職業もそれぞれバラバラ、心理療法家や看護師、画家もいれば、成功したビジネスマンや役所の経理担当もいるし、まあバラエティーにとんでいるのです。
ただこの本で紹介されている人たちというのは、実は共通点があって、トニー・パーソンズという悟りの先生みたいな人がいるのですが、その人の「ミーティング」と呼ばれる講演会に出席して悟りを開いたという人たちなのですね。
で、そのせいかどうかわかりませんが、7人のインタビューなのですが、どの人の話を聞いても、どこを読んでもなんていうか無味無臭で、個性というものがいっさい記憶に残らないのです。私はいつも読むたびに「水のような本」という印象を受けました。
これは、悟りを開いた人たちの話だからなのか、そのきっかけとなった師が同じだからなのか、あるいは、文章を書いたのが一人の人で、おまけに日本語訳されているからなのか、そのへんはよくわかりません。たぶん、それらすべてじゃないかと思いますが。
そして、古閑博丈さんの訳が、この本の人たちが本当に語っているような口語訳で素晴らしいのです。「本当に語っているような」というのは、あくまでも私の想像ですが、この人たちが日本語で話したらこんな感じで話すのかなあと思える、自然な語り口なのです。
初版は2014年1月となっていますが、私はそのころ、本当によくこの本を読みました。読んでいて心地良かったんですよね。どこを読んでも、誰の話を読んでもサラサラとして何も残らないのです。(ってまたさっきと同じことを言っている~)
そのころ、アマゾンの感想では、「こんなの悟りじゃない」という批判もあったように思いますが、私にとっては悟りとかはどうでもよかったので、その点は全く気になりませんでした。私は悟りたいとも、そのころ流行ったような「体験」をしたいとも思ったことはないのです。
ただ水を飲むようにこの本を読んでいました。文章を環境音楽的に読んでいたわけです。
ただし一応、「非二元」とか「アドヴァイタ」とか「ノン・デュエル」とかいう言葉を初めて聞きましたという方がいきなり読む場合のために補足しておくと、この本にはたくさんの個人名が出てくるのですが、それらはほとんど、それらの世界の「先生」です。
トニー・パーソンズさんだけでなく、非二元の世界には欧米系のたくさんの先生、教師の方々がいらっしゃって、この本でインタビューをされているのは、彼らを渡り歩いた末にトニー・パーソンズさんに行き当たって悟りを開きましたという人たちが多いので、いろいろな個人名が出てきますが、それらは気にしないでも大丈夫です。(そのへんを知らないと、気になって環境音楽的にはならないかもなので一応補足でしておきます)
今、この記事を書くにあたって久しぶりにざっと読み流してみました。
以前によく読んでいたころ私が好きだった文章を、なにしろ水のような本なので、どこだったか探すのがたいへんだったけどようやく見つけました。
「そのころは友だちにこう言っていました。自分は空間の中の点だったけど、シフトのあとはその点を含む空間になったんだよ、と。」
私は勘違いしていて、「自分は魚だったけど、シフトのあとは海になったんだよ」だと思っていたのですが、それはまた別の人の話と混同していた模様。ほんとに、誰が何を言ったかという個人を区別して記憶するのが難しい本なのです。
ただ読み直して思ったんですが、今の私はどうやらもう前のようにはこの本に惹かれないみたいです。
そして気が付いたのですが、ボディートークの目指すところと、この「非二元」的悟りというのは、似た系統の道を行っているなと思いました。究極は「無」というか「全」というか、そういう状態を真実としているように思います。
パラマ・ボディートークでもアドヴァイタが元になっていますしね。
だからといって、この「わかっちゃった人たち」が、ボディートーク的に「エンライトメント(悟り)を開いた状態」であるかどうかはちょっとわかりませんが。
「真実は人によって違う」 いつも私が思うことです。